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SNSの「構造的バグ」にハマった知性:本田由紀教授の炎上が突きつける、言葉と謝罪の致命的な溝1. イントロダクション:たった一つの言葉が「研究者生命」を揺さぶる時
私たちが日常的に利用しているSNS、とりわけ「X」という空間は、極めて短い言葉で世界と接続することを可能にしました。しかし、その利便性の裏側には、書き手の「意図」と読み手の「直感的解釈」が決定的に乖離してしまうという、回避困難な構造的リスクが潜んでいます。
2026年9月、東京大学教授の本田由紀氏が投じた一つの投稿は、まさにこの「言葉の解釈のズレ」が引き起こす最悪の事態を象徴するものとなりました。教育社会学者として、長年「生まれによる不平等」を厳しく批判し続けてきた知性が、なぜ自らの発信によって「差別」や「優生思想」の疑いをかけられ、激しい指弾を浴びるに至ったのか。この騒動を単なる個人の失言として片付けるのは容易ですが、そこには現代のデジタル・コミュニケーションが抱える「致命的なバグ」が凝縮されています。
騒動の起点となったのは、皇族費の増額や旧皇族の養子縁組をめぐる議論の中での投稿でした。本田氏は、三笠宮彬子女王(麻生太郎氏の姪)の露出増加を批判する他者の投稿を引用し、「この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる」と言及したのです。
ここで、この言葉の深層を解剖する必要があります。本田氏が用いた「遺伝的要因」という表現の一般的な語義は以下の通りです。
「遺伝的要因」の一般的語義解釈 「遺伝的」:遺伝子(DNA)によって親から子へ受け継がれる性質・特徴に関するもの。生物学的な伝達を指す。 「要因」:物事を引き起こす主な原因・要素。 合わせて「遺伝子や血統によって受け継がれた性質・特徴が、ある結果や現象を引き起こす主な原因」という意味になります。
本田氏は後に、この言葉を「血縁者を優遇しようとする麻生氏の行為の問題点」を指す、いわば「ネポティズム(縁故主義)」の代替語として使ったと説明しました。しかし、学術的な厳密さを求める立場でありながら、生物学的な決定論を想起させる言葉を選んだことは、致命的な「用語のミスマッチ」であったと言わざるを得ません。
さらに、この誤読を決定決定づけたのは視覚情報の存在です。引用された元投稿には皇族の顔写真が添えられており、それに対して「この人たちを目にするたびに」と書いた事実は、読み手に対して「外見や血統そのものへの嫌悪(ルッキズムや差別)」という解釈を、半ば強制的に、そして直感的に固定させました。意図と表現の間に横たわるこの決定的な乖離が、騒動を不可避なものにしたのです。
批判を浴びた本田氏が9月5日に公開した「解説」書面は、沈静化どころか、さらなる猛反発を招くことになりました。炎上対応の専門家である新田龍氏は、この対応を「我が国の炎上の歴史上、最も悪質な部類」「悪手を網羅的に実演した教材」と極めて厳しく評しています。
最大の敗因は、これが「謝罪」ではなく「レクチャー」の形式をとったことにあります。自身の正しさを論理的に証明しようとするあまり、批判を「読み手の曲解」と断じ、さらには「曲解に基づく非難は、非難する側の責任になりうる」と警告を発したのです。この姿勢は、社会学者の常見陽平氏が指摘するように、一方的な「知性の暴力」として映りました。
本来、コミュニケーションの責任は発信側に帰属します。にもかかわらず、読み手に対して「正しく理解できないお前たちが悪い」というマウントを仕掛けてしまったことが、専門家としての傲慢さを際立たせ、炎上の燃料となってしまいました。
なぜ、これほどまでに本田氏は頑なに「曲解だ」という主張を崩さないのでしょうか。そこには、東京大学教授であり、日本教育学会会長という権威ある立場ゆえの、切実な生存戦略が見て取れます。
「生まれによる不平等」の解消をライフワークとする研究者にとって、たとえ数ミリであっても「差別的意図」を認めることは、これまで積み上げてきた研究業績と社会的信用の全否定、すなわち「研究者生命の終了」を意味します。この「 institutional preservation(立場の防衛)」という構造的なプレッシャーが、彼女を自己正当化という隘路に追い込んだのです。
客観的に見て無理のある解釈であっても、彼女にとっては「差別を認めないこと」こそが、守るべき最後の一線(防衛線)であったという皮肉な構図が浮かび上がります。
今回の騒動は、本田氏個人の資質の問題以上に、SNSというシステムそのものが内包する「構造的なバグ」を浮き彫りにしています。
本田教授の炎上騒動が私たちに突きつけたのは、どんなに高度な知性であっても、SNSというバグだらけの広場では、自らの言葉が意図せぬ刃となって他者を傷つけ、そして自分自身に跳ね返ってくるという冷酷な現実です。
「文面が自然にそう読める」以上、読み手側の解釈に分があるのは明白です。発信者が後からどれほど緻密な解説を重ねても、最初に放たれた言葉のインパクトを消し去ることはできません。
私たちはこの不完全な広場で、自らの「正しさ」を証明することに固執し続けるべきなのでしょうか。それとも、言葉の不完全さと解釈の非対称性を認め、より誠実で謙虚な対話の形を模索すべきなのでしょうか。SNSというシステムのバグを理解した上で、それでも言葉を紡ごうとする私たち一人ひとりに、その覚悟が問われています。
2. 「遺伝的要因」という言葉の多義性と、避けられなかった誤読3. 「解説」が火に油を注ぐ:炎上対応における「知性の暴力」4. 生存戦略としての「曲解」主張:研究者生命を守るための防衛線5. SNSというシステムの「バグ」:文脈が剥奪されるコミュニケーションの限界6. 結論:私たちは「言葉の凶器」を制御できるか