珈琲 , Jazz & 巡礼と…
BSS山陰放送の元DJ、わだひろと(阿太朗)氏に関する記録です。1970年代の深夜番組『ミッドナイト・パートナー』最終回の音源やブログを通じ、当時の放送事故やリスナーとの交流、カフレバー等の技術、共に人気を博した陶山史朗や永東明らとの青春が綴られています。
現在は風紋亭夏朝として落語を嗜みつつ、福山市で「珈琲&レコードで愉しむ会」を主宰。ドーナツ盤の魅力と自身の原点であるラジオ文化を伝え続けています。
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不完全な「声」が震わせた深夜の魂:1972年、わだひろとがマイクに込めた「接続」の正体1. はじめに:深夜0時5分、周波数を合わせた先にあったもの
スマートフォンの冷たいブルーライトが部屋を照らし、指先一つで世界と繋がれる現代。しかし、私たちの孤独はあの日よりも深まってはいないだろうか。
かつて、深夜の静寂の中にだけ現れる「解放区」があった。真空管ラジオから漏れる淡い光と、ザーザーという絶え間ないノイズの向こう側。1972年、山陰放送(BSS)のラジオブースは、たばこの煙が立ち込め、機材の熱気と独特の緊張感に満ちていた。そのマイクの前に立っていたのは、プロのアナウンサーではない。留年を目前に控えた、一人の大学生・わだひろと氏だった。
番組の名は『ミッドナイト・パートナー』。わずか10ヶ月という放送期間でありながら、彼が放った「声」は、50年の時を超えて今なお、当時のリスナーたちの胸を熱く焦がし続けている。
1970年代初頭の深夜放送は、単なる娯楽ではなかった。それは大人たちが寝静まった後に訪れる、若者たちの「聖域」だったのだ。
最終回の冒頭、わだ氏はこう切り出した。 「僕が始めた夜になんか作った人は、そろそろ生まれてくるんじゃないか」
この言葉は、単なる冗談ではない。深夜放送という密室的なコミュニケーションが、リスナーの人生の最もプライベートな営みにまで浸透し、新しい生命の誕生(子作り)にさえ関わっているかもしれないという、当時のラジオが持っていた圧倒的な「当事者性」を象徴している。
わだ氏がこれほどまでに支持されたのは、彼が「完成されたプロ」ではなかったからだ。放送中、彼は「4年生だけど卒業は若干危うい」と自虐的に笑い、同じように留年を繰り返す友人を「尊敬しましょう、それも青春さ」と肯定する。15歳の少年リスナーから届く電話に、等身大な「迷える兄貴分」として応じるその姿。そこには、エリートには語れない、不完全な若者同士の連帯があった。
「僕は呼びかけはしない。遠く過ぎ去るものに」
小椋佳の『さらば青春』が流れる中、カフレバー(マイクスイッチ)を落とした後のスタジオに漂う、いつか終わってしまう青春への予感。その一瞬の輝きが、電波に乗って誰かの部屋の孤独を癒していたのである。
当時のパーソナリティとリスナーの間には、現代のコンプライアンスやビジネスの枠組みでは到底説明できない「血の通った信頼」があった。それを象徴するのが、吉田拓郎のチケットにまつわるエピソードだ。
ある時、リスナーから「拓郎の鳥取公演のチケットが手に入らない」という悲痛なハガキが届いた。わだ氏は迷わず行動に出る。なんと自腹でチケット代(当時で1万円を超える大金)を立て替え、「丸福レコード」へ走ったのだ。さらに、チケットが定形封筒に入りきらないと知るや、あり合わせの紙で封筒を自作して糊付けし、リスナーへと郵送した。
後日届いたそのリスナーからの感激に満ちたカードは、マイクを通じた一対一の交流が、単なる「放送者と聴取者」を超え、一人の人間としての誠実さに根ざしていたことを証明している。情報の速さではなく、こうした「泥臭いまでの丁寧さ」こそが、深夜放送の伝説を作ったのである。
アナログ放送の現場は、物理的な接触とハプニングの連続だった。
不完全な人間たちが、必死にマイクにかじりついて時間を繋ぐ。そのスリリングな現場感こそが、リスナーにとっては何よりのエンターテインメントだったのである。
1972年の最終回、ビートルズの『The Long and Winding Road』を背にマイクを置いたわだ氏は、今、広島県福山市で「風紋底(ふうもんてい)夏朝」として活動している。
このユニークな名の由来は、学生時代の「落語研究会(オチケン)」での芸名にある。落語、DJ、そして現在の活動……。彼の中では、50年前から「喋り」を通じて誰かと繋がろうとする志は一貫している。現在は「珈琲&音楽で愉しむ会」を主宰し、かつて深夜放送で回していた7インチの「ドーナツ盤レコード」を中心にかけながら、自ら淹れた珈琲とともに、対面での会話を大切にしている。
「ラブレター・ミッドナイト」のコーナーでダニエル・リカーリの『二人の天使』を流しながらハガキを読んでいたあの頃。今は、レコードの溝をなぞる針の音と珈琲の香りが、かつての電波に代わって「心の接続」を支えている。デジタル時代に人々が再びアナログ盤や対面での会話を求めるのは、効率化の過程で削ぎ落とされてしまった「誰かの気配」を、本能的に求めているからに他ならない。
わずか10ヶ月。それは長い人生において、瞬きの間に過ぎない時間かもしれない。しかし、その一瞬の交錯が、わだ氏にとっても当時のリスナーにとっても、半世紀を経ても色褪せない「一生の宝」となった。
情報の正しさやスピードが最優先される現代、私たちは効率的に「情報」を処理してはいるが、誰かの「体温」に触れる機会を失ってはいないだろうか。1972年のマイクの向こう側にあったのは、未熟で、不器用で、しかしどこまでも誠実な一人の人間の鼓動だった。
情報の濁流に押し流されそうになる今、私たちはかつての深夜放送のような「心震える接続」を、どこで見つけられるだろうか。あるいは、あなた自身が、誰かの孤独を温める「ミッドナイト・パートナー」になれる瞬間が、まだ残されてはいないだろうか。 不完全なままの「声」を届けること。そこからしか始まらない繋がりが、きっとあるはずだ。
2. 深夜放送は「若者たちの解放区」だった3. 「自腹でチケットを郵送」:究極のリスナー・ファースト4. 「放送事故」さえもエンターテインメントになった時代5. 50年の時を超えて:レコードと珈琲が繋ぐ「今」6. 結論:私たちは「誰かの声」を求めている